nenaの気まま日記

日常でふと思った事感じた事などを気ままに書いて見る事にしました。

私の戦争体験

終戦記念日が近づくと、テレビやラジオ、新聞では戦争の特集が続く・

 

当時6歳を迎えて間がない頃だったので、記憶は定かではないが、

父の仕事の関係で、川崎市に住んでいた私は、貝塚の自宅を

強制立ち退きで離れ、やはり川崎市の渡田に転居、渡田小学校で

入学式だけはする事が出来たが、その後一日も通学はしていない。

今のコロナと一緒だと、ふとその頃の事を思い出した。

 

軍事工場がいっぱいあった川崎は、東京空襲の1ヶ月後空襲を受けた。

我が家の周辺にいくつも焼夷弾が落ち、近所の家々が次々と燃えていく。

 

庭の一隅に作った防空壕などは、熱風であっという間に焼け死んで

しまうだろう。

7人姉妹の我が家は、すぐ上の姉二人は学童疎開で神奈川県の

丹沢大山へ、もっと上の3人の姉達は、その日、庭の防空壕にお米や

食べ物、釜などを放り込んで泥をかぶせ、ぎりぎりまで頑張っていたらしい。

 

母は1歳半の妹を背負い、6歳の私の手を引いて、避難所のある

学校へと、火の粉の降りかかる中を飛び出して行った。

 

道路は狂ったように走ってくる馬や犬や、うづくまった様に動かない人達、

それぞれに逃げ回って行く人達でいっぱいで、

母は「危ないから田んぼの中を横切ろう・・・」と泥の中をずくずくに

なって逃げまわった事ははっきり覚えている。

 

田んぼに入るちょっと前に、知らないおじさんが子供連れでは

大変だから、避難所までおじさんと一緒に行こう、と私の手を引っ張ろう

としたけれど、私は「死んでも嫌だ!」と言って、母にしがみつき、

母の袖を決して離すまいとしっかり掴みながら、必死になって田んぼの中に

入っていった事だけは決して忘れる事は出来ない。

 

少し高台にあった学校は戦火を免れたが、そこから眺める

我が家の方角は一面空が赤黒く煙っていた。

あの時の怖かった体験と、光景は今でも目に焼き付いている。

 

幸いに翌朝姉達も無事な事が分かり、焼け跡に戻って、姉達が

防空壕に放り込んだお米を炊いて食べた事、家も、何もかも無くなって

しまったけれど、家族全員が無事だった事は何よりも幸せだったと思う。

 

渡田新町の農家の納屋で一時過ごしたり、焼け残った六郷の親戚の家で

暫く世話になった後、やはり焼け残った東京豊島区椎名町の父の弟の

家の一間にどの位世話になったのだろう。

多分二学期の中頃から椎名町小学校に行ったように思うが、はっきり

覚えていない。

その後の話は長くなるので、今は書かないことにする。

 

昨日「この世界の片隅に」というアニメ映画をテレビで放映していた。

土曜夜~日曜にかけて、ラジオ深夜便で「戦争体験を伝える」という

テーマで、リスナーの手紙をもとに、映画の主人公、すずさんの様な体験

をした人の話、それを伝え聞いた子供や孫たちの手紙も披露。

 

戦後75年、戦争を体験した人達がだんだん少なくなり、

広島や長崎の原爆、戦争の悲惨さもだんだん薄れていく。

戦争で多くの人が掛けがえのない大切なものをいっぱい失った。

両親や家族を失った戦争孤児たち、戦争は決してしてはいけない。

人間は何故戦争を繰り返すのであろう?